電撃文庫と堕落生活*でんだら*

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いやほんとどうでもいいので気にしないでください。日本の歴史。

図書館報。

お題「日本の歴史」


見にくいし醜いので追記に置いておきます。


では


 さて、日本の歴史というどう考えてもネタのからみそうもないお題になってしまったのでやる気のなさを前面に出しつつ適当にスペースを埋めていきたいと思う。(ちなみに途中で分からない単語が多々出てこようとも気にしないのが得策かと)
 まあ、日本の歴史といったら、鬼神新撰くらいしか該当するものが思い出せないのだがそれはしょうがないことだろう。なぜならば歴史小説は過去のなぞりにしかならず、オリジナリティが発揮しにくい所であるからだ。大唐風雲記などでもいいが、あれは確実に日本ではないし、だかといって火目の巫女といった新しいところを狙おうにも、流石に日本っぽいけど豊田さまが創ったって言っちゃたしで、どうしようもない。
 ウルクとかリセリナとかで思い出せるのは伝記小説というものだが、伝記ファンタジーを日本の歴史として扱ってよいのかともどうか分からないというのが本音である。まあノウラでもケリンでもだいたい言える事は同じだと思う。
 要するにラノベに日本の歴史というものはなかなか出てこないということなのだ。先も書いたが、当然のように昔の出来事をなぞるだけでは新しい面白さや斬新なアイデアが思いつくことはなく、ただあるのは事実の再発見とそれに伴う改訂だけである。
 またそのおもしろさは、文章力に依存し、ストーリー、展開などは事実に基づくものが基本にあるために誰がどう作ってもだいたい同じものしかつくれない。また、新しい試みとしてギャグを加えようにも昔の笑いと今の笑いの種類の違いは明白であり、その差によって起こる現象として、現在の人々にウけるギャグを織り交ぜると、文章構成上雰囲気的に不自然となり、逆に昔のセンスにあわせてしまうと笑いが起きるかどうかも定かではない。つまりは、何度も言っているようにオリジナリティが出しにくいジャンルであって、ということは純粋に文章力がその話の面白さを決定付けてしまうというなんとも面白くない結果になってしまうのが当然であり、摂理というものかとも思う。
 よって新人が多いラノベ業界に歴史小説は似合わず、というか対象にすらなっていないともいえるので、当たり前のようにネタが生まれてくることはないわけで、それこそ面白くないとも言えるのだが、結局この文章を書かねばならないことには変わりはなく、つまらないこのテーマで限界まで粘ってみようかと思いつつ、長すぎる前振りを終わらせようかと思う。
 ここで待って欲しいのが私の一番の苦手とするものが暗記物だということをちょっと知っておいて欲しい。それだけわかれば後は簡単な推論でも導き出される答えで、当然「私は歴史が嫌い」なのだからこまったものだ。いまここにある、つまりは何も資料がなくても脳内で考えることの出来る歴史に対する事実はほとんどないのが現状なので、調べるとかそういう努力をしてもいいのだが、なんかそれも癪なのでこのまま無理矢理進んでしまおうと思う。ちなみにかなり偉そうに断言口調で言っているのだが根拠は全て脳内論理なので信用性はまるでゼロなのでそこを注意しておいてください。


 とりあえず近代じゃないと理解も出来ないの戦争らへんから行く感じで見切り発車で行ってみようか。
 戦争の発端はだいたいどうでもいいことなんだと思う。だってそうではないのか? 第一次世界大戦だってただ青年が一人殺しただけで戦争になってそれによって何十万、何百万、何千万、何億もの人々が死んだのだ。そう。死んだのだ。命の価値というものをここで論議しても仕方のないことだが、青年一人の命と何億の命と比べたら当然何億の命のほうが価値が重い。しょうがないことだがそれは真理で、シンプルで便利だからこそ。それが真理というものなのだ。1+1=2が巨視的、あるいは微視的な世界においては絶対でないように、命の価値というものは状況によって変動してしまう。主観で見れば関係ない数億人と、一番親しい人一人の価値に小なりの不等号をかける可能性もある。だが私たち、つまりは過去とは無関係の現代人にとってみればその価値は一目瞭然で、当然多いほうの命が大切なのは言うまでもない。人一人の命、つまりはその青年が殺人に成功せずにそれ以前に殺されていたなら第一次世界大戦は起こらず、死者はでなかったかもしれない。まあそんな机上の空論を広げていても既に過ぎ去った過去に再現性はなく、再び同じことが起こることも違うことが起こりなおすこともなく、ただただそのままの状態で横たわっているだけなのだから無駄な議論だ。
 さて、ではその死の責任というのは何処に行くのか。青年に落ち度は確かにあった。当然人を殺して許されるはずもない。だが、その青年に戦争に対する落ち度などはどこにもない。当然の如くそれは因果関係として誰もが予想し得なかったことだろうからだ。AによってBがおき、その結果Cになる。という理論的思考をたどっても予想し得ないDということに対してまで責任能力を追求するのは、それこそ理論的思考のもとに簡単に否定することが可能だ。戦争の始まりというものは些細なものでも発展し、それが誰も予想し得なかった大きな流れとなる。銃弾数発で数億人が死んだという大きな流れ、それこそ誰しも予想し得ない事実だろう。さらに言えばその偶然の重なった干渉のない必然性に対して、「責任」という言葉を使ったこと自体が間違いなのかもしれない。責任は誰にでもあり誰にもない。前線でマシンガンをぶっ放した人間は殺人を犯しているし、それを命令した上司は当然殺人幇助だ。そのきっかけを生み出しただけの青年に、全ての責任を押し付けることは出来ず、責任という言葉自体があいまいな定義の元に成り立っているのだからそれはしょうがないことでもあるのだろう。
 因果関係の成立には偶然性が付きまとい、その責任の所在は明らかになることはない。結果、一の死が億の死へと変化する因果関係が生まれてしまった。
 きっかけがあれば人は容易く死ぬ。という結論で。


 さて、ひとつ終わったあたりでテーマが「日本の」歴史だったことに気付いて全部消そうかとも思ったが、書いていた時間が水の泡となって消えるのが虚しいのでこのまま普通に日本に入りたいと思う。


 日本の歴史といってまず思い出すのが豊臣秀吉、次に徳川家康、さらに卑弥呼。なんでそこで卑弥呼になるかとかそういうどうでもいいことは聞かなくてもいいので適当に話を進める。さて、そうやってたくさんの思い出される人々がいるわけだ。その人たちは当然、極少数派のマイノリティーで、他の大多数の民衆というモノの上に立っている人々なのである。
 たとえば民衆がいないとする。当然の帰結として政治は成り立たない。経済も成り立たない。税も成り立たない。要するに人間が大勢いなければ、少数派の裕福な人たちは暮らせないわけだ。農民という身分の低い人間から搾取した税金(まあ昔は基本的に米だったが金と同様に扱っていたので金で統一)をつかって商人に金をバラまき高価なものを買い、高価な家を建て、でっかい城を建て、その中で女を侍らせて悠々自適に暮らしていたという先入観で私はそういう昔の人を見ている。
 つまりそう言う人間はピラミッドの頂点であって、そのピラミッドは当然下がしっかりしていないと安定しない。一番安定するのは最下層が最も多い状態のときである。つまりそれは昔で言えば農民が大部分を占めていた状態であり、日本の過去の歴史を見ると当然農民が武士より少ない時代などあるはずもない。そして時代は変わろうともそのシステムは変化せず、サラリーマンを下層としたピラミッドの頂点に現在はとりあえず小泉さんが座っている。そのピラミッドが揺らいでいる背景には、さらに下層にフリーターやらニートやらが存在し、ピラミッドの基盤を揺らしているからだと考えられる。
 現在の話をしてもしょうがないので閑話休題して本題に戻ると、ほんの一握りの人間が台頭するにはそれに見合った下層の人間が必要であるということである。それは普遍の事実であるために過去、現在、そして未来までも適用されている。
 その証拠が江戸時代である。江戸時代が長く続いたのは何故かというのは諸説あるが、ここでは下層の人間をうまく支配(コントロール)できたということに絞って考えてみる。先ほどから言っているように、ピラミッドの底辺がうまく機能しないことほど、上の少数派の人間が揺らぐことはない。つまりは基盤をしっかりしておけばその政治は安定するということに他ならない。そこに関しては徳川幕府はかなり優秀であった。士農工商という身分わけによってその地位を固定化し、さらに不満をもらし一番不安定になりやすい農民という身分の下にえた、ひにんという身分を設けることによって幕府に対する非難を薄くしたのだ。人間誰しも、自分より境遇の悪い人間が非難していないことを非難する気にはなれない。よく大人が使うふざけた論理の「世界には貴方よりもっと悪い環境で生活している人がいるのだから文句を言わないの」というものも、この人間本来の精神に働きかけ、無邪気な子供をだましていく巧妙な手口の一つである。
 そうして、驚くほど長く続いた江戸幕府の仕組みは成り立っているのだろう。
 あとたまに、別に面白くもなんともない切り返しで、「金閣寺を建てたのは?」「大工さん」というのを使用するが、これは確かに言いえて妙で、要するに少数派の人間は命令をしたことによってそれを行ったことになうのだからおもしろい。古墳を作ったのは農民だろうが、それを建てさせたのは国王であり、それはつまり国王が古墳を作ったことになる。よく考えてみればこれは現代でも同じことで、国立の建物は当然国が支持して金を出してつくったのだろうが、実際に作ったのは設計士であり大工であり業者なのだ。
 そしてそれは下層の人間であって、つまりは、底辺の人間である。縁の下の力持ちとはこのことではないのかと今思った。
 さてそれではそろそろここら辺で終わりにしたいと思う。ながながと駄文に付き合ってくださりありがとうございました。結局ネタは一つしか入らなかったので次はもうちょっとがんばりたいと思います。では。

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学

  1. 2006/02/16(木) 01:27:39|
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