電撃文庫と堕落生活*でんだら*

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遠足で東京見学に行くというのは田舎者丸出しな気がする

「遠足というものは遠くに足を運ぶと書いて遠足と読むように、もともとの意味と今現在、つまりは現代社会で使われている言葉としての意味との差は無いわけだ。まあ、以前の使用方法と異なっているからといって、遠足の意義が変わることも遠足という行為自体の意味が変化することも無いのだけれどね。
 まあとにかく、遠出をする、という意味としての遠足はあるのだけれども、その遠足でわざわざ行った所が、東京、というのが泣けてくるとは思わないかい? ……いや、わざわざ同情を誘っているわけでも、同情を求めているわけでも、東京に遠足でいけるということを自慢しているわけでもないのだがね。要するに僕が本当に言いたいことといえば、遠足で「東京見学」という案、それ自体が、既に田舎者という悪い印象を与えるような響きを持っているということだ。さして気にならない者もいるのだろうが、僕はそこに対してはかなり敏感な反応をしてしまったのだからしょうがないだろう。人間の反応などというものは一概に御せるものとは言い難いし、ましてやそれが感情という制御不可能な範囲の事柄ならなおさらのことだ。別に僕がその事柄に対して敏感な反応をしていることを自己否定しようとしているのではないよ。僕はただ単に事実を述べているだけであってそれに対する印象は決して僕の印象ではなく、それは君だけのものだと僕は考えているからね。
 さて、東京見学という言葉が人々に与える印象ということなのだが、まず何を思い浮かべるかね? 君は? まず思い浮かぶこととしては、当然東京に住んでいるものではこの考えは成り立たないわけだ。たとえ東京の端といってもいい程に東京駅から離れている八王子ににすんでようと、それは東京都内ということには変わりないはずだ。だとするならば、当然東京見学という言葉は不適切ではないだろうか? 僕がそれに対して率直な名前をつけるとするならば、そうだな、都心見学といった方が的を得ていると思うのだが君はどう思うかね? いや、別に八王子を非難しているわけではないよ。八王子には八王子としていいところはたくさんあると僕は思うし、それに対してその地の人々が思い描く理想の……といったらおかしいだろうか、その地の人々が良いと感じる八王子の長所はそれこそ数え切れないほどあってしかるべきだと思う。ただ、それに対して短所を挙げていけば、それも数え切れないほど上がってしかるべきだとも思うけどね。
 八王子の人々が都心見学というならば、いやこれは訂正するべきなのだろうか、まあ訂正したところで問題ないので訂正するが、八王子に限らず東京都内の人々が都心見学というならば――これで問題はないだろう――東京見学という言葉は誰が使うと思うかね? これは当然東京都ではない別の都道府県……東京意外に「都」は無いから、道府県というべきか。東京ではない別の道府県の人々が東京を見学目的で訪れるときに「東京見学」という言葉を使うというわけだ。
 僕の出身地は東京都内だ。ただ、現在住んでいてさらには高等学校に進んでいる僕が在住している地域は、公的にも便宜上も「埼玉県」と呼ばれる地域である。埼玉は誰でも知っている通り、当然東京都ではない。そんなことは誰でも、一般常識を備えた人間ならば誰でも知っていてしかるべきことであろう。だが、とりあえずこれから話す内容、それといままで話してきた内容全てにおいて僕の在住地域のことを忘れないで欲しいのだが、そこのところはどうだろうか? 忘れる忘れない、記憶する記憶しないは君の自由意志を尊重したいと思うのだが、僕としてはどちらかというと些細なことなので覚えておいて欲しい。記憶はいつか、時間とともに薄れ消え、忘れて行ってしまうものだが、それでもどうしようもない人の心には、記憶というものは実体の無い記録として本人が望む望まないにかかわらず残り続けてしまう。それゆえに自らの過去の行動を完全には忘れきれずに自責の念ばかりを募らせたり、トラウマという精神的外傷として残してしまう人が日本、ひいてはこの地球上にもいくらでも存在しているものだ。だが、僕が埼玉県に住んでいるという情報のみを記憶していることによって、君が精神的に追い詰められることは皆無といえないまでも、無い可能性の方が確実に上回っていると考えるのが常識的だろうと思うから僕のこと、そしてそのことを記憶にとどめて欲しいといった僕の言葉を、少しだけでいいから君の心に留めておいて欲しい。
 埼玉県民が東京に遠足に行くというときに東京見学という言葉を使うというのは至極当然のことのように思えてしょうがないという人もなかにはいると思う。僕だってそれは当たり前だと思うし、当然のこととして受け止めよう。埼玉県民とは当然東京都民ではないことは誰の目にも明らかだからだろうね。
 だがしかし僕はここでそれに意義を唱えたいと思う。当然のことを当然と受け止められない僕の心はゆがんでいると思われてもしょうがないとも思っているけど、それを当然のこととして受け流して先のことを話そうというゆがんだ心を僕は持っていると自負しているから、その問題については僕の側で問題は全くといっていいほどないと言っていいであろうね。問題が無いことがはっきりしたので話を先に進めようと思うが、意義を唱えたといっても、東京都外の人間が東京に遠足に行くことを東京見学と呼ぶことに、意義を唱えたのではないよ? 東京見学という言葉の持つイメージを鑑みた時に、その言葉を果たしてこの状況で使うべきなのかということに意義を唱えているだけなんだよ、僕は。なぜならば東京見学という言葉のなかに含まれる「東京」という言葉は「東京都」という意味のほかに「都心」というニュアンスも含まれていると思うからなんだろうね。
 都心に見学に行く、東京に見学に行く、というこの二つの言葉は似ているようで非なるものとして扱うべきだと僕は思うが、普通の人――ここでは一般人と呼ぶことにしようか。その方が君にとっても聞こえもいいだろうしね。一般人の定義を論ずるつもりは特にないが、補足しておくと、「僕のような偏った思考回路を持たずに、他者と思考をあわせようと努力している普遍的に大多数の人間のこと」のように説明すると丁度いいと思う。さて一般人は、都心に見学に行く、東京に見学に行く、というふたつの言葉について大方の場合考えてみたことは無いと思う。それはそうだろう。この僕でさえ今はじめて考えてみたことなのだから、普通の思考回路、つまりは、一般人としての大多数にあわせるような思考回路をしている人間が、このようなどうでもいいことを真剣に考えたりすることは大抵の場合において有り得ないだろう。だがしかし、このふたつの言葉を聴いたときに違いを感じることは少ないと思う。これはあくまで僕の主観であるからして正解とは程遠いことは重々承知しているが、僕一人で考えを話している以上主観が混じるのはある程度の範囲内まではしょうがないことだ、としていただけるととても嬉しい。僕がうれしいからと言って君が何か得るものがあるといえばそれはないと言ってもいいだろう。だが、その心には僕にうれしいと思ってもらったという満足感が生まれると思う。その満足感のために僕の話をある程度許容してはくれないか。ここでおねがいをしてもしょうがないことは分かっているが、そこの所をよろしく頼む。そうして主観を固定してもらったおかげで僕は同じような話を続けられることに敬意を表しておこう。
 さて、一般人が持っているイメージは、都心と東京ではあまり大差が無いということになったわけだが、東京が都心と同じように扱われているということは、東京見学ということばは都心へ行くという言葉と洞祇と扱ってもよろしいだろう。だが、ここで僕は少しだけだが考えた。
 都心へ行くということは、自ら自分は都心の人間ではない。言い換えれば田舎者だということを暗に示しているのではないか。
 このことに思い至ったため、僕は東京見学という言葉に違和感、ひいては嫌悪感をかんじていたんだと自己分析する。田舎者が悪いとは言わない。だが田舎者という言葉に悪いイメージがついて回っているのは僕は確定事項だと思う。そのイメージが僕を動かし、そのために嫌悪感を抱かせているのだろう。困ったものだ。

 とにかく、東京見学って言うネーミングセンスはどうにかした方がいいと思うね。僕は。 追記-Postscript-
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  1. 2006/05/09(火) 23:35:12|
  2. 散文
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